院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


Believe

 

「ピアノの伴奏がいまいちね。」
「声もあまり出てないし。」
隣で、お喋りが聞こえる。私はさっきからその無神経な会話に苛立っている。まず声が大きい。それに揚げ足を取るような事ばかりを言う。
「んー、んー。」当てつけがましく鼻腔を鳴らすが、まるで意に介さない。鈍感である。
「静かにしてもらえますか?おしゃべりをしに来たのですか?せっかくの合唱が聞こえません。出て行って下さい。」言いたい言葉が次々に浮かんでくるが、やっとの思いでこらえた。秋の日の昼下がり。
中学校の体育館。クラス対抗の合唱コンクール。父兄席で私は娘の出番を待っている。
「次の発表は一年三組です。」娘のクラスが舞台に上がる。「落ち着いて、落ち着いて」と心の中でつぶやく。娘の背中に、そして自分自身に。

「今度、クラス対抗の合唱コンクールがあるんだけど、ピアノ伴奏をすることになったから。」
一月半ほど前に、娘が言った。娘は小さい頃からピアノを習っているのだが、お世辞にも上手とは言えず。週一回のレッスン日にしかピアノを弾かない。ピアノに対して愛着も頓着もない。
「どうして?」
私たち夫婦は驚いて、声をそろえて聞いた。すると『女の意地』だと言う。中学校一年の娘の口から、『女の意地』とは恐れ入ったが、詳しく事情を聞いてみる。クラス対抗合唱コンクールは全クラス共通の課題曲とそのクラスが選んだ自由曲の計2曲を合唱し、優劣を競うというものらしい。従ってピアノ伴奏者を一人ないし二人出す必要がある。音楽の先生が、「ピアノ伴奏をしたい人?」と生徒に訊いた時に、いち早く手を挙げた女生徒がいた。娘よりピアノ経験が浅いが、ピアノが弾けることを日頃から自慢している(と娘が感じている)生徒だ。どうしてあなたが、と思う間もなく、自分も手を挙げていたと、娘が告白する。そして『女の意地』で、「難しい自由曲を自分が弾くことになっちゃった。」と他人事のように言う娘。私自身ピアノをちょこっと弾くので、伴奏や合奏の難しさを知っている。ソロ演奏の場合は、間違ったら間違ったで、手を止めて、弾ける所からまた始めればいい。ところが伴奏や合奏ではそうはいかない。ミスタッチがあっても、テンポを崩さず、図太く演奏を続ける度胸とテクニックが必要である。
「中途半端な気持ちで引き受けて、あとでやっぱり弾けませーんでは皆に迷惑がかかってしまうよ。」私たち夫婦は、言葉を選びながらも、手を変え品を変えて、ピアノ伴奏を思いとどまらせようとした。しかし、娘は頑として聞き入れない。しまいには目に涙を浮かべながら、「死ぬ気で頑張るから、女の意地だから」と言う。彼女の『女の意地』がどれほどのものかは判断できないが、そこまで言うならば、親としても前向きに検討しようということになった。三日後のピアノレッスン日に、ピアノの先生に楽譜を見せて、
「この曲を伴奏として弾くことになったんですけど、どうでしょうか?娘は弾けるでしょうか?」おそるおそるお伺いを立てる。先生は初見で弾いた後で、
「んー、難しいアレンジですね、今からだとちょっと厳しいかな」言葉は優しいが、その表情はあからさまに「無理」と言っている。「そこをなんとか」娘共々懇願すると、
「最後のところで半音上げて歌うようにアレンジされていますけど、そこの部分の演奏が難しいですね。それをオリジナルに戻すのであればなんとかなるかもしれませんね。」
「もうどんなアレンジでもかまいません。娘の弾けるお手軽バージョンでいいですので、どうにか形にして下さい」娘のために親も必死である。次回までに易しくアレンジしてくると約束してその日のレッスンは終了した。翌日娘は学校の音楽の先生に、ピアノの先生の提案を上申すると、意外にも、「少しの変更はいいけど、最後のところで盛り上げるためにも、半音上がりのアレンジは必要よ」との返事。その旨を翌レッスン日にピアノの先生に言うと、「んー」と先生は唸った。娘のために私たちも食い下がる。
「合唱コンクールまで、週2〜3回先生に来てもらって練習すれば間に合うのではないでしょうか?」それならばということでピアノの先生も渋々承知した。
 翌日から、娘は目の色を変えて練習に励んだかというと、そうでもない。遅々として進捗せず親をはらはらさせる。コンクール二週間前、最後の半音上がりのパートの運指がやはり難しく、スムーズに弾けない。ピアノの先生の目が三角になっている。娘のお尻にも火がついた。「ここができない、うまく弾けない」と泣きそうになりながら、暇を見つけてはピアノに向かう。『女の意地』である。やはり努力は報われるもので、コンクール二日前の合同リハーサルでは、間違える事なく伴奏できたと嬉しそうに話していた。
「レッスン回数を倍以上に増やして、それだけお金もかかっているのだから、できて当然よ」私たち夫婦は世知辛いことを口にするが、娘の頑張りに感心し、「あきらめさせないで正解だった」と胸をなでおろした。

「ピアノうまいねって、みんなが褒めてくれたよ。」二日前、自慢げに話していた時の表情とは一変して、ピアノの前に座った娘の顔は緊張で強張っていた。
「落ち着いて、頑張って」祈るように舞台を見つめた。
曲は「Believe」という曲だ。ピアノ前奏は淀みなく、歌の入りもスムーズだ。娘は落ち着いて演奏している。
「その調子、その調子」前半を終え、間奏も無難にこなし、後半のサビの部分に入る。

世界中の やさしさで
この地球を つつみたい

その時、恐れていたことが起こった。娘の手が止まったのだ。ピアノの音が途絶えた。ドクン。胸の鼓動がはっきりと聞こえ、次の鼓動までが果てしなく長く感じられた。頬が火照り、ビデオカメラを持つ手が震えた。娘が必死に演奏を再開しようとしている姿がモニターで揺れている。
「あーあ、やっちゃった」
「他の子に弾かせればよかったのにね」
隣から聞こえる無慈悲なお喋りで我に返った。しかし、狼狽し気が動転する私の中で、目を閉じ冷静に状況を観察する自分がいた。ピアノ伴奏が止まった合唱は、糸の切れた凧の様にきりもみして落ちることはなく、むしろ安定して空に舞った。これまで聞こえづらかった男声がグッと前面に出て、それを包み込むように女声が響く。クラスのみんなが、ピアノが止まった事を知り、自分たちの声でそれを支えようとしている。皆が娘を励まし、応援している。私も拳を強く握りしめた。
「みんな有難う。頑張れ、みんな頑張れ」
半音上がりのパートの前で、娘はピアノ伴奏を再開させることができた。泣きそうになりながら何度も練習した所だ。ピアノ再開を受け、合唱もさらに力強さを増し、皆の心がひとつになった。

いま未来の 扉を開けるとき
悲しみや 苦しみが
いつの日か 喜びに変わるだろう
I believe in future

信じてる

演奏が終わり、娘の挑戦が終わった。『女の意地』がどこまで通せたのかは分からない。うつむいたまま舞台を降りる娘の肩が細く見える。その肩をクラスの誰かがそっと叩いた。それがすべてを物語っていた。
 結果発表。ビリにならなければいいのにと願った。ビリになれば全てが娘の責任になる。どんな言い訳を重ねても、勝負事は結果でしか評価されない。世の中は厳しい。しかし、予想に反して、娘のクラスは一等賞・金賞に輝いた。クラス全員が飛び跳ねて喜んだ。その輪の中に娘の姿があった。『女の意地』よりも、もっと大切な事を娘は学んだと思った。一緒に練習し、支えてくれた仲間と心をひとつにすること。Believe ― 仲間をそして自分を信じること。

たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は

かならず僕が そばにいて
支えてあげるよ その肩を

「Believe」の歌詞が心に届く。娘を信じてよかった。胸が熱くなった。

「他のクラスの生徒に言われちゃったよ。『わざと間違えたんでしょ。あれって演出?』って」娘が能天気に笑う。命が縮む思いをした親の気も知らずに。



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